2018年のFIA F2は、ジョージ・ラッセル(ART、17年GP3チャンピオン)が前年のシャルル・ルクレールに続きルーキーイヤーでタイトル獲得。同じくルーキーのランド・ノリス(カーリン、同FIA F3チャンピオン)が2位、参戦2年目のアレクサンダー・アルボン(DAMS)とニック・デ・フリース(プレマ)が3、4位に続き、本命・対抗と目されたドライバーが期待通りの活躍を見せたシーズンでした。
アロンソF1引退に寄せて
フェルナンド・アロンソが事実上のF1引退を発表しました(アロンソ、17年のF1キャリアに区切りも、将来の復帰の可能性残す)。20年シーズンの復帰は否定していないものの、この4年間、全く競争力のないクルマで苦しんできただけに、とうとう”その時”がやって来たかという印象です。
今回は個人的にも思い入れの深いアロンソを、大いに褒め称える”アロンソ讃歌”のブログです^^;
ホンダHFDPからF1ドライバーが生まれない原因
今年は二人の日本人ドライバーがF1直下のFIA F2に参戦していますが、いずれも大苦戦を強いられています。個人的にも年間で10位前後には位置すると思っていたので、ここまで低迷するとは予想外でした。
牧野任祐はチームメイトのアルテム・マルケロフが既に3勝を挙げているのに対し、これまで6位が最高。予選こそ上回っているものの決勝ではレースペースで大きく劣り、ハンガロリンク終了時点で既に100点近くもの大差をつけられています。
確かに相手は昨年のランキング2位、参戦5年目の”ベテラン”ですからハンデがあって当然とも思えますが、彼がチームメイトに勝ったのは昨シーズンが初めて。そんないわゆる”ペイドライバー”に、ここまで大差をつけられているようではF1など夢のまた夢です。
福住仁嶺もチームメイトのマキシミリアン・ギュンターが既に1勝、2位1回を獲得しているのに対し、先日のハンガロリンクでの6位が最高。こちらはチーム自体の不振もあり、ギュンターと大差はついていませんが、ランキングでは牧野16位、福住18位(ハンガロリンク前まではブービーの19位)と、もはやスーパーライセンスはおろか、ポイント加算(10位以内)すら危うい状況です。惨状とすら言っていいかもしれません。
元レッドブル・ジュニアのその後(後)
前回に続いて、元レッドブル・ジュニアのその後を紹介します。
ブレンドン・ハートレー(ニュージーランド 2006-2010)
今シーズン、F1レギュラーの座を掴みましたが、ジュニアチームからストレートに昇格したわけではないので、ここで取り上げたいと思います。
地元ニュージーランドでの活動の後、2006年に渡欧しフォーミュラ・ルノー (FR) 2.0 ユーロカップ&NECに参戦。初年度は目立った成績はなかったものの、レッドブルのサポートを得た翌年にはユーロカップでタイトルを獲得。さらにF3デビュー戦となったマスターズF3では、いきなり4位に入賞する速さを見せます。
08年には英国F3にステップアップし、シーズン最多の5勝を挙げランキング3位に。この時のチャンピオンは同じくレッドブル・ジュニアのメンバーだったアルグエルスアリ、2位はオリバー・ターベイ(現フォーミュラE NIO)、そして4位セルジオ・ペレス、5位マーカス・エリクソンという顔触れでした。また英国と並行してユーロF3にもゲスト参加したほか、この年のマカオでは予選レースでクラッシュを喫し20番スタートながら、決勝では3位表彰台+FLを獲得する非凡なレースを見せました(優勝は国本京祐、2位はエドアルド・モルターラ)。またこの年、初のF1テストドライブも経験するなど、F1昇格に向けて順調にキャリアを歩んでいました。
09年はユーロF3とFR3.5にダブル参戦する一方、レッドブル/STRの公式テスト&リザーブ・ドライバーに指名されます。しかしシーズン途中でF3とFR3.5に集中するため、アルグエルスアリと交代することに。この後セバスチャン・ブルデーがSTRを解雇されて、急遽アルグエルスアリがリザーブからレギュラーに昇格することになったわけで、後になって見れば誤った選択でした。
しかも肝心のユーロF3でも1勝止まりでランキング11位に低迷。FR3.5でも未勝利と不本意な結果に終わります。翌年は再びレッドブル/STRのテスト&リザーブドライバーをリカルドとシェアする一方、引き続きFR3.5に参戦。リカルドとはチームメイトになりますが、成績不振によりシーズン途中でレッドブル・ジュニアから切られた上、F1リザーブだけでなくFR3.5のシートも失ってしまいます。
その後、11年に再びFR3.5に復帰しランキング7位。GP2にも10〜12年にかけて何度かスポット参戦しましたが、フル契約には至らず。結局F1直下の2カテゴリーでは未勝利に終わりました。12〜13年にはメルセデスF1のシミュレータードライバーも務めましたが、12年にはとうとうシートのないままレースシーズン開幕を迎えるというドン底状態にまで陥ります。
ただ捨てる神あれば拾う神あり。シーズン途中に当時ユーロピアン・ル・マン・シリーズ (ELMS) に参戦していたマーフィー・プロトタイプスからオファーを受け、耐久レース&ル・マンにデビューすると、翌年にはELMSと米国のロレックス・スポーツカーシリーズ(後にアメリカン・ル・マン・シリーズと合併して、現IMSAウェザーテック・スポーツカー)にフル参戦。マーフィーはLMP2の中でも中位以下のチームでしたが、そんな環境下でチームをELMS年間5位、ル・マンでもクラス6位に導きます。その速さは徐々に周囲の耳目を集めるようになり、14年からのLMP1復帰を発表していたポルシェから声がかかりテストに参加。ワークスシートの座をゲットしました。
その後の活躍は皆さんご存知の通りで、15年&17年のWECシリーズチャンピオン、17年ル・マン優勝と耐久レース界のトップドライバーに成長。レッドブル・ジュニア時代から親交のあったマーク・ウェバーとチームメイトになったことも、自身にとって大きなプラスになったでしょう。
そして昨秋、STRに空きができそうになると自らヘルムート・マルコへ売り込み、F1デビューのチャンスを掴みました。当然ながらレッドブルを一旦クビになったドライバーが、紆余曲折を経てSTRに”復帰”した初めてのケースであり、他の新旧レッドブル・ジュニアドライバーにとっても励みになったことでしょう。
ミルコ・ボルトロッティ(イタリア 2009)
イタリア国内のエントリーフォーミュラを経て、07年イタリアF3にステップアップ。2年目には9勝を挙げてタイトルを獲得し、オフシーズンにはその褒賞としてフェラーリF2008のテストドライブの機会を得ます。しかもその際、当時のフィオラノのコースレコードを破り、一躍関係者の注目を集めました。(Bortolotti breaks Fiorano lap record. | News | Crash)
当時はまだフェラーリにジュニアプログラムはなく、09年レッドブル・ジュニアにスカウトされ、新設されたFIA (MSV) F2に参戦。前回のウィケンス、アレシンに次ぐランキング4位とルーキーとしては上々の成績を収めます。シーズンオフにはSTRのテストにも参加し、一時は翌年アルグエルスアリに代わってF1デビューするという噂まで流れるほどでした。
しかし全く理由は不明ながら10年1月、突然レッドブル・ジュニアを解雇されます。本人にとっても全く寝耳に水の出来事でした。一方でその2ヶ月後には当時設立されたばかりのフェラーリ・ドライバー・アカデミー (FDA) に加入。まさかレッドブルとの間で譲渡交渉があったとは思い難いですが、タイミング的には不思議な符合ではあります。
当時のFDAメンバーはボルトロッティのほか、契約第1号だった故ジュール・ビアンキ、ダニエル・ザンピエリ、ラファエル・マルチェロ(現メルセデス・ファクトリードライバー)の4人で、この年の後半にはセルジオ・ペレスやまだカートを走っていたランス・ストロールも加わることになります。レッドブルとフェラーリいずれのジュニアプログラムにも所属経験があるのは、現状では彼と後述するカラム・アイロットのみですね。
FDAのサポートを得て10年は新設のGP3に参戦しますが、優勝ゼロ、表彰台も僅か1回でランキング11位と低迷。結果、FDAもまた1年で後にすることになります。素行不良が原因という噂も一部でありましたが、真相は不明です。
大きな後ろ盾を立て続けに失った11年は、比較的参戦コストの安いFIA-F2に復帰。すると皮肉にも2位以下に100点以上の大差をつける圧倒的強さでチャンピオンを獲得し、今度はウィリアムズでF1テストの機会を得ます。しかし大口スポンサーを持たないボルトロッティにはF1はおろか、GP2に参戦する資金もなく、その後は一時的にフォーミュラ・アクセラレーション1 (FA1) という”意味不明な”シリーズへの参戦はあったものの、事実上この年限りでフォーミュラを離れることになりました。
12年からはGTにスイッチし、翌年にはワールドシリーズ・バイ・ルノー内のイベント、ユーロカップ・メガーヌ・トロフィーで全14戦中13PP、8勝を挙げる圧倒的強さでチャンピオンを獲得。その活躍によって今度はランボルギーニのヤングドライバープログラムに抜擢されます。実にレッドブル、フェラーリに次ぐ3つめの育成プログラム加入でした。日本では2社でもあり得ませんが、欧州でも3社の育成プログラムを渡り歩くのは大変珍しいことです。
14年は欧州のランボルギーニ・スーパートロフェオに参戦し、ワールドファイナルを制すると、15年からは念願のファクトリードライバーに昇格。ブランパンGTではHuracan GT3の開発を務めながら、昨年は耐久&総合のダブルチャンピオンに輝きました。今年のデイトナ24HでもGTDクラスを制覇し、今や押しも押されもせぬランボルギーニのエースドライバーですね。もし噂にあるようにランボルギーニがWEC GTEへとプログラムを拡大することになれば、真っ先に名前が挙がることでしょう。
ルイス・ウィリアムソン(イギリス 2012)
日本ではほぼ無名ですけど、個人的にはレッドブル・ジュニアチームの負の側面を代表するドライバーだと思います。
ジム・クラークやジャッキー・スチュワートなど数々の名ドライバーを生んだ英国スコットランド出身。国内のカートで数々のタイトルを獲得し、08年終盤にフォーミュラへステップアップ。09年からFR2.0 UKに参戦すると、2年目にはトム・ブロンクビスト(現BMWファクトリードライバー)に次ぐランキング2位となります(ちなみに4位は元F1ドライバーのウィル・スティーブンス、5位は現WECフォードGTのハリー・ティンクネル)。さらにこの年のマクラーレン・オートスポーツ・BRDCアワード (MABA) を受賞するなど、スコットランドの新星として期待されていました。
MABAの賞金10万ポンドを元手に、11年にはGP3へステップアップ。1勝を挙げランキング8位となります。当時チームメイトだったミッチ・エバンス(現フォーミュラE ジャガー)が同9位と互角の勝負だったことからも、その才能が窺われるでしょう。この活躍により翌年レッドブル・ジュニアに選ばれます。
そして迎えた12年。アーデン・ケータハムからFR3.5に参戦しますが、開幕からの3ラウンドでノーポイントの大不振。するとわずか5レースでレッドブル解雇という憂き目に遭います。同時にFR3.5のシートも失い、その後任に収まったのが、後述するアントニオ・フェリックス・ダ・コスタでした。
たった5レースでのクビは当時の業界内でも波紋を呼び、これをきっかけにレッドブルへの”警戒”が強まったように感じます。確かに強力なサポートは魅力ですが、他の育成プログラムと較べてもあまりにハイリスクであり、ドライバーやその関係者にとっても諸手を挙げて歓迎する風潮は影を潜めたように思います。
事実、ピエール・ガスリーまではトロ・ロッソのドライバー候補には事欠かず、多い時には2つのシートを4〜5人で争うような状況すらあったレッドブルですが、ガスリーの後はぽっかりと”空白”ができてしまいました。苦肉の策としてブレンドン・ハートレーの”出戻り”で埋めてはいますが、現在のジュニアチームで最もF1に近いと思われるダン・ティクトゥムですら、F1まではまだ2〜3年はかかるでしょう。
この”空白”の背景としてウィリアムソンの一件は無視できないと思います。実際、ストフェル・ファンドーンやランド・ノリスはマクラーレンを、シャルル・ルクレールはフェラーリを、エステバン・オコンやジョージ・ラッセルはメルセデスを選ぶなど、近年の有力ドライバーはマックス・フェルスタッペンを除いて軒並みレッドブル以外のジュニアスキームを選んでおり、レッドブルの最近の”人材不足”への影響は大きいでしょう。
閑話休題。ウィリアムソンはその後、再びGP3にシートを得て13年まで参戦しますが、14-15年にはとうとうレースから姿を消してしまいます。その間、一般企業でエンジニア見習いとして働いたり、FR2.0のストラッカやGP3のステータスGP(いずれも当時)のドライバーコーチを細々と続けて糊口を凌いでいました。
そんな彼を救ったのが、ドライバーコーチとして採用していたストラッカ・レーシング。オーナードライバーのニック・レベンティスに請われ、16年ルノースポール・トロフィーでレースに復帰すると、いきなり優勝&2位の活躍。これにより当時ストラッカが参戦していたWEC LMP2のドライバーにも抜擢されます。昨年はチームと共にブランパンGTへスイッチすると、シルバーカップでクラス3勝を挙げランキング2位になるなど、見事に復活を果たしました。今シーズンはブランパンGTとインターコンチネンタルGTチャレンジのプロアマクラスに参戦しており、初戦のバザースト12時間では総合7位でフィニッシュしています。
アントニオ・フェリックス・ダ・コスタ(ポルトガル 2012-2013)
ウィリアムソンの解雇に伴い、代わってレッドブル・ジュニアに抜擢されたのがアントニオ・フェリックス・ダ・コスタでした。
08年にフォーミュラへデビューすると、その年のFR2.0 NECではバルテッリ・ボッタスに次ぐ2位に、翌年にはチャンピオンに輝きます(2位はケビン・マグヌッセン)。10年はユーロF3、11年はGP3や英国F3に参戦しますが、いずれもそれほど目立った成績は残せず、2度のマカオGPでも1年目の6位が最高と、この頃は言ってみれば”並み”のドライバーでした。
12年も引き続きGP3に参戦していましたが、運命が大きく変わったのがシーズン途中のレッドブル・ジュニアへの抜擢。GP3ではそれまで選手権9位だったのが、抜擢後は3勝&最多6回のFLを獲得し3位に躍進。さらにウィリアムソンの後任として参戦したFR3.5では、シーズン終盤の5戦だけで年間最多の4勝を挙げる大活躍を演じるなど、まさに大ブレイクを果たします。この年のFR3.5ではロビン・フリンス、ジュール・ビアンキ、サム・バードといった錚々たる面々が、GP2を凌ぐハイレベルなタイトル争いを繰り広げていましたが、前半3ラウンドを欠場したにも関らず、彼らに僅差で続くランキング4位に。さらに同年のマカオGPも初制覇し、一躍レッドブル・ジュニアのエースとして嘱望されるようになります。
13年も引き続きFR3.5に参戦。当然チャンピオンの最有力候補と目されましたが、ここで予想外の苦戦を強いられます。ランキングこそ3位に収まったものの、勝利数は前年を下回り、チャンピオンのケビン・マグヌッセン、2位のストフェル・ファンドーンにも大きく水を開けられました。それでもダニエル・リカルドのレッドブルF1昇格に伴い、空いたSTRのドライバー候補筆頭に挙げられていましたが、最終的にレッドブルが選んだのは同年GP3でチャンピオンを獲得したダニール・クビアト。あと一歩まで迫りながらも、F1参戦の夢はここで潰えることとなりました。
ただダ・コスタは以後も数年に渡ってレッドブルのスポンサードを受けており、ニール・ジャニやセバスチャン・ブエミ同様”円満退社”したパターンに入ります。
その後、14年からはBMWのファクトリードライバーに選ばれDTMに参戦。3シーズンで1勝&3PPを記録しました。また14/15シーズンに新たに始まったフォーミュラEにも初年度から参戦しており、チーム・アグリに唯一となる優勝をもたらしたことは、国内の専門媒体でも大きく取り上げられましたね。16年には2度目のマカオGP制覇も果たし、改めてフォーミュラでの実力もアピールしました。現在もBMWファクトリードライバーとして、BMWアンドレッティからフォーミュラEに参戦する傍ら、DTMからWEC GTEプロへスイッチ。数々の耐久ビッグレースにも参戦するなど、国際的に活躍中です。
カラム・アイロット(イギリス 2015)
カート時代には史上最年少でWSK ドライバー・オブ・ジ・イヤーに輝くなど華々しい活躍を見せ、同世代では最も将来を嘱望されたドライバーでした。15年にレッドブルのサポートを受けトヨタ・レーシング・シリーズでフォーミュラにデビュー。シリーズ終了後、正式にレッドブル・ジュニアに加入します。
しかしこの頃のジュニア・フォーミュラ界は、前年FIA F3で衝撃的なデビューを飾り、フォーミュラ経験たった1年でF1昇格を果たした”フェルスタッペン・ショック”の真っ只中。アイロットもカートでの実績に溺れたか、後に続けとばかりにエントリーフォーミュラを経ず、いきなりFIA F3からスタートするという”愚行”を犯してしまいます。
案の定、時折光る速さは見せるものの経験不足は否めず、3位1回が最高でランキングも12位に低迷。それでもフォーミュラ1年目という点を考慮すれば上出来ではあったのですが、レッドブルはそのようには判断せず、わずか1年でジュニアチームを解雇されてしまいます。
ただカートで見せた才能に疑いはなく、2年目には2勝を挙げランキング6位に躍進。マカオでも予選フロントロウを獲得し、決勝でも5位と成長の跡を見せます。昨年は常勝プレマに移籍し、チーム最多の6勝&10回のPPを獲得したほか、マカオでは決勝こそ不運なリタイアに終わったものの、予選レースを制するなど、徐々にその速さが結果に結びつきつつあります。
このオフシーズンには新たにフェラーリの育成プログラム (FDA) のメンバーに選ばれ、カテゴリーもGP3にスイッチ。昨年ドライバーズ選手権トップ4を独占したARTからの参戦で、タイトルの本命と目されています。同年デビューのランド・ノリスにはかなり差をつけられた感がありますが、アイロットも今後が楽しみなドライバーの一人ですね。
[番外編]エンリケ・ベルノルディ(ブラジル)、パトリック・フリーザッカー(オーストリア 2001-2004)
おまけに番外編として、レッドブルに関係する二人の元F1ドライバーを。
レッドブルのサポートの下、最初にF1に参戦したドライバーは、01年にアロウズからデビューしたエンリケ・ベルノルディでした。レッドブル・ジュニアチームは90年代後半〜2000年代前半にかけて、独自の国際F3000チームを所有(チーム運営はヘルムート・マルコが代表を務めるRSMマルコが担当。そこからマルコはレッドブルの若手全体を見る立場になる)しており、99-00年にチームに所属していたのがベルノルディでした。F3000では優勝どころか表彰台すらなかったものの、当時レッドブルがスポンサードしていた縁でザウバーのテストに参加。レッドブルはそのままザウバーでF1デビューさせる腹積もりでしたが、ペーター・ザウバー御大はテストでその才能に惚れ込んだキミ・ライコネンをフォーミュラ・フォードから大抜擢。ペーター御大の眼鏡が正しかったことは、その後の歴史が証明しているわけですが、これが後にレッドブルが単なるスポンサーから独自のチーム設立に動くきっかけにもなりました。
ジュニアチーム設立より7年も前、94年に14歳でレッドブル初のジュニアドライバーに選ばれたのが、05年にミナルディからF1に参戦したパトリック・フリーザッカー。順調にジュニアフォーミュラでキャリアを積み、01年〜03年には先述のレッドブル・ジュニアチームF3000から国際F3000に参戦。03年には1勝を挙げランキング5位となります。04年はチームを移籍し再び1勝を挙げますが、ジャガーF1を買収したレッドブルは、既にF1デビューしていたクリスチャン・クリエンと、国際F3000チャンピオンのヴィタントニオ・リウッツィをデヴィッド・クルサードのチームメイトに抜擢。フリーザッカーはジュニアチームを外されます。
それでもフリーザッカーは独自にスポンサーを獲得し、ミナルディでF1デビュー。あの出走わずか6台となったインディアポリスでのアメリカGPで、6位入賞(もちろん最下位完走)を果たしました。ジュニアチームを外された後にF1デビューのチャンスを掴んだ珍しいケースです。
最後に過去にレッドブル・ジュニアのメンバーだった主なドライバーを紹介しましょう。(カッコ内は所属期間)
- ナレイン・カーティケヤン(インド 2004):元F1ドライバー(ミッドランド&HRT)、14年〜スーパーフォーミュラ参戦
- フィリップ・エング(オーストリア 2005-2006):14-15年ドイツ・ポルシェ・カレラカップ・チャンピオン、15年ポルシェ・スーパーカップ・チャンピオン、17年ADAC GT Masters4位、18年DTM、現BMWファクトリードライバー
- 黒田吉隆(日本 2006):現状、日本人唯一のレッドブル・ジュニア経験者
- オリバー・オークス(イギリス 2006-2007):現ハイテックGP代表
- トム・ディルマン(フランス 2007-2008):10年ドイツF3チャンピオン、16年FV8 3.5チャンピオン、16-17年フォーミュラE参戦、18年WEC LMP1、スーパーフォーミュラなど
- ジャン・カール・ベルネイ(フランス 2007-2008):09年マカオGP 2位、10年インディライツ・チャンピオン、12年フランス・ポルシェ・カレラカップ・チャンピオン、17年TCRインターナショナル・チャンピオン、18年WTCR
- カルン・チャンドック(インド 2008):元F1ドライバー(HRT)
- ダニエル・ユンカデッラ(スペイン 2008-2009):11年マカオGP優勝、12年ユーロF3チャンピオン、13-16/18年DTM、現メルセデス・ファクトリードライバー
- トム・ブロンクビスト(イギリス 2013):14年FIA F3 2位、15〜17年DTM参戦(通算1勝、16年ランキング6位)、18年フォーミュラE、WEC GTEプロなど、現BMWファクトリードライバー
- アレックス・リン(イギリス 2014):13年FIA F3 3位、同マカオGP優勝、14年GP3チャンピオン。18年フォーミュラE、WEC GTEプロ、現アストンマーティン・ファクトリードライバー
- ディーン・ストーンマン(イギリス 2015):10年FIA (MSV) F2チャンピオン、14年GP3 2位、18年WEC LMP1
元レッドブル・ジュニアのその後(前)
レッドブルが自らのドライバー育成プログラム「レッドブル・ジュニアチーム」を設立したのは2001年のこと。それまでも個別にチームやドライバーのサポートは行っていましたが、ヘルムート・マルコをトップに、独立したプログラムとして組織されました。翌02年からは同プロラグムの米国版「レッドブル・ドライバーサーチ」もスタートしています(05年にジュニアチームとの統合により終了)。
設立当初はレッドブルの地元・オーストリア人ドライバーが多数を占めていましたが、その後対象は世界各国に拡大。これまでに輩出したF1ドライバーは、レッドブル&トロ・ロッソ (STR) 以外からのデビューも含めれば、実に18人にも上ります。またこれまでにジュニアチームに所属経験のあるドライバーに至っては約80人 (!) 当然ながら同様のスキームを持つフェラーリやルノーなどを圧倒的に上回る数字です。
18年現在、F1世界チャンピオン1人&優勝経験者3人という成果を成功と見るか、効果が低いと見るかは人によって評価の分かれるところでしょうが、F1まで辿り着くだけでも至難の業の中、これだけのドライバーを世に送り出してきたことは素直に評価されるべきでしょう。